人生は琴の弦のように : 夢の国・亞洲文化宮

スポンサーサイト

------

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

人生は琴の弦のように

20080515

<はじめに>
四川省大地震で犠牲になった方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
また、今後の救助、救援活動が順調に進みますように。
災害復興を心から願っております。

<本日の作品>
 1991年/中国・日本・ドイツ・イギリス・フランス/1時間47分(レンタルVIDEO)
 監 督  陳凱歌(チェン・カイコー)
 原 題  邊走邊唱 / Life on a String
 原 作  史鉄生『命若琴弦』
 出 演  劉仲元(リウ・チョンユアン)  黄 磊(ホワン・レイ)
       許 晴(シュイ・チン)  馬 羚(マー・リン)

<あらすじ>
三弦琴の名手である師匠(劉仲元)とその弟子シートウ(黄磊)はどちらも盲目で、旅芸人をしている。師匠の歌と琴は人々の争いを鎮める不思議な力を持っており「神」と崇められていた。彼は、亡き師匠の「弦を千本弾き切れば琴の中にある処方箋により目が見えるようになる」という言葉を信じて長年精進してきた。辺境の村にたどり着いた時はすでに残り数本。一方、シートウは村の娘蘭秀(許晴)との恋に溺れ、師匠の戒めを聞こうとしない。ようやく千本を弾き切った師匠は薬屋で処方箋を見せるが、それが白紙であるとわかり落胆。シートウは、蘭秀の父から交際を反対され村人から暴行を受けるが、それでも彼女をあきらめきれない。ところが蘭秀は未来を悲観して崖から身を投げる。
<感想など>
台詞や情景が多くの暗示を含んでいるようで、物語の筋は判然としない。
同じ陳凱歌監督の『子どもたちの王様』もそうした作風だったと記憶している。
まずは、師匠の歌と琴の音、シートウを演じる黄磊の演技、そして砂漠と大河の大パノラマなど、直接耳と眼に入ってくる現象をそのまま楽しむとしよう。

師匠の歌をよく聴くと、その歌詞は人生訓である。誰もが聴いてわかる短文の連なりだ。
琴の音は彼の精進の賜物である。
皮肉なのは千本目が「暑さのよって切れた」ことだ。シートウはそれをわかっていながら師匠に「切れた」と報告する。
この報告は虚偽と言えるだろうか。
蘭秀は虚偽だと言うが、シートウの中には「師匠の眼が早く見えるようになってほしい」という思いやりがあっただろうから、彼を責めることはできない。また師匠にも「千本」に対する焦りが見えた。
崇高な歌と人間的な欲望のギャップを感じた出来事だった。

師匠は「目が見えるようになる」未来に向かって琴を弾き続けてきたのだ。ところが一瞬にしてその希望は崩壊する。この時私の頭によみがえってきたのは、冒頭の、死の床にある師匠と弟子の姿だ。その弟子こそ今では老人となった師匠である。盲目で生き抜くことの困難を知っている師匠が放った「嘘」は、十分すぎるほどの効力を発揮したと思う。亡き師匠は死後の自分が侮辱されることを承知の上で嘘をついた。何と深い愛情だろう。
師匠はなじみのうどん屋で酔っ払うが、女将(馬羚)とその夫は彼を優しく包み込む。
この夫がまるで菩薩のようだ。もしかして亡き師匠の生まれ変わり?なんていうのは考えすぎだろうか。

師匠がコツコツと芸を磨いたのに対し、シートウの生き方は刹那的だ。
蘭秀の存在を両手で追う仕草や、彼女の顔の全てを刻みつけようとする手の動きが、激しい恋心を物語っている。
また、蘭秀が彼の指を感じる姿も官能的だ。
ところが、燃え上がるほどに幸せが遠ざかる気がしてくる。

蘭秀の死は自分が原因だと思い、盲目であることを呪うシートウ。
また彼は師匠の白紙の処方箋により、一生盲目である現実を突きつけられる。
彼の歩む道の険しさが伝わってくる。

そんな中、彼の琴にしまってある手紙は一筋の光とも思える。
彼はいつこの光を感じるのか。
師匠から贈られた凧を背負って旅立つ彼の姿は、最初よりだいぶ大きく見えた。

コメント

非公開コメント
プロフィール

孔雀の森

Author:孔雀の森
いろいろな出会いを
大切に♪

カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最近のコメント
カテゴリー
最近のトラックバック
最新の記事
リンク
ブログ内検索

Pagetop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。