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世界の果ての通学路

20141020

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2012年/フランス/1時間17分(劇場にて鑑賞)
監 督  パスカル・プリッソン
原 題  SUR LE CHEMIN DE L'ECOLE/ON THE WAY TO SCHOOL

<感想など>
ケニア、アルゼンチン、モロッコ、インドの4地域の、過酷な登校風景が代わる代わる映し出される。象の通り道を迂回して15キロの道のりを行く兄弟、馬で18キロを駆け抜ける兄妹、3人で支え合いながら山越えをする少女たち、そして兄の車いすを押す幼い弟たち。彼らはみな、大きな夢を抱えているからこそ、厳しい通学路に挑み続ける。学校がすぐ目の前にあって時々忘れ物を取りに帰った私には、全く別世界の風景だ。そう思うのは自分だけではないだろう。

こんなふうに教訓的な話としてとらえる一方で、別の感覚もわいてくる。
ドキュメンタリーと言えば、王兵監督の救いようのない暗さや、台湾の年配者たちの苦悩が、ずっと心の中に根付いている。だから今回の映像は、確かに苦難の道のりではあるが、底抜けに明るい印象だった。カメラを向けられた時から、彼らの通学路は光の当たる道になったのではないか。子供たちにとっては、撮影された経験も大きいように見えた。やはり、淡々と続く苦悩よりは、満面の笑みの方が観ていて楽しい。

もう一つ、大人のドキュメンタリーとは違う感覚があった。
撮影隊は子供たちの苦労を間近で見ているのである。もし自分なら手を差し伸べたくなるだろう。遅刻しそうになっているのなら、車に乗せてあげたいし、車いすが壊れたならあのお兄ちゃんをおんぶしてあげたい。そんなことをしたらドキュメンタリーではなくなるのは承知の上で、そう思わずにいられない。

ところで邦題の「世界の果て」は、ずっと気になっていた。自分の立ち位置を中心とした見方だと思う。あるいは自分とは全く異なる環境を「果て」と表現しているようにも感じる。

そうした些末はさておき、子供たちの意欲や将来の展望は後味がいい。小中学校時代を懐かしく思えるから、前向きな見方ができるのかもしれない。

親子連れが多いのもうなずける作品だった。
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おじいちゃんの里帰り

20140818

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2011年/ドイツ/1時間41分(劇場で鑑賞)
監 督  ヤセミン・サムデレリ
原 題  Almanya-Willkommen in Deutschland
英 題  Almanya-Welcome to Germany
出 演  ヴェダット・エリンチン
     ラファエル・コスーリス
     ファーリ・オーゲン・ヤルディム

<あらすじ>
1960年代半ば、フセイン・イルマズ(ヴェダット・エリンチン)は一家でトルコからドイツに移住。以来50年近く働き続け、妻と共にドイツ籍を取得する。そんな時、彼は突然家族全員でトルコへ帰郷すると宣言。長男と次男は子供時代からの不仲を引きずり、長女の娘チャナンは妊娠に動揺し、三男の息子チェンク(ラファエル・コスーリス)は自分のアイデンティティに悩んでいた。

<感想など>
トルコとドイツの関係も、両国の言葉も全く分からず、スクリーンにすべてをゆだねる姿勢で鑑賞。一家の歴史と人間模様があふれ出て心温かくなる作品だった。

すべてはおじいちゃんの深い愛情から始まった物語だ。
大学生の孫娘チャナンが従弟のチェンクに一家の歴史を語る形で、回想シーンが描かれる。長男と次男が一つのベッドに寝るシーンや、清掃作業婦に憧れる長女の表情が、過去から現在へと引き継がれる。そんなところに、フセインが目指していた里帰りへの思いを感じた。語っているのは親世代ではなく孫世代。ユーモアのあふれた見方が好奇心をくすぐる。

国家指導者が移民について「労働力ではなく人間を求めた」と語る場面に、フセインの異国での姿勢が想像できた。一方、チャナンの恋人がイギリス人だと知った時「ドイツ人ならまだしも…」と言った彼の戸惑いが気にかかった。異文化の中で揺れ動く一家が、3000キロのバスの旅で行きつく先はどこなのか。もちろん故郷には違いないのだが、それぞれの心がたどる道筋と苦境を乗り越えていく姿には、こちらも勇気をもらった気分だ。

チェンクが授業で故郷が載っている地図を貼ってもらい、自分なりの結論を出したところで、おじいちゃんの帰郷の意味が強く感じ取れた。一家を一番理解しているのはおじいちゃんだったのかも。チャナンも恋人と一緒に人生を歩んでいくのだろう、と前向きにとらえることができた。

この春、電車で20分ほどのところにミニシアターが誕生(正確に言えば再開)し、買い物ついでの気軽な鑑賞が実現。シートが心地よくて、いいリラックスタイムだ。(笑)でも本作品は終始目を見開いていた。テンポがいい上、登場人物がみんな魅力的。とにかくチェンク役の男の子が愛らしくて目が離せなかった。

今度ダメモトでもお気に入り作品をリクエストしてみようか。


星空の下で

20140203

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2010年/オランダ/1時間51分(「江ノ島アジア映画祭2014」で鑑賞)
監 督  レナード・レーテル・ヘルムリッヒ
原 題  Position Among the Stars

<内容・あらすじ>
オランダ人監督レナード・レーテル・ヘルムリッヒ氏が、インドネシア人の母の故郷で撮ったドキュメンタリー映画3部作の3作目。いずれもシャムシュディン家を映し出した作品である。

インドネシアの片田舎に住むルミジャは、ジャカルタに住む息子、孫の元へ移住することになる。高校卒業を控えた孫娘タリの力になるためだ。タリは5歳で両親と死別し、おじ夫婦に面倒を見てもらっていた。勉強のできる彼女は一族の期待を一身に集め大学に進学する。学費はルミジャが自宅を担保に銀行から融資を受けて工面したものだ。しかしタリは勉強より遊ぶことに夢中で家族の忠告に耳を傾けようとしない。一方おじのバクティは、家事と仕事一切を妻に任せ闘魚に夢中だ。そんな夫に妻がとうとう怒りを爆発させ、夫婦仲は最悪の状態に。ルミジャは故郷に帰る決心をする。

<感想など>
昨年の本映画祭上映作品『青春ララ隊』がよかったので今回も期待して出かけた。すると予想以上の素晴らしさで、さあ、来年も!と思っていたところ、会場が閉鎖されるために今回が最後とのこと。残念。何かの形で継続していただければいいな、と思う。

ドキュメンタリー3部作の3作目ということで、人物の背景について細かい説明はなく、家族関係を把握するのに時間がかかった。でも少しずつわかっていく、というのもいいものだ。

片田舎に住むおばあちゃんには都会に住む息子が二人いて、そのうちの一人バクティにとっては、姪のタリは娘同然である。もう一人の息子には幼稚園に通う男の子がいる。みんな経済的に苦しいが、彼女の出世が幸せをもたらしてくれると考え、援助を惜しまない。しかし当の本人との間に微妙なずれがあるのも確かだ。さて彼女は一族の星となるのだろうか。

インドネシアを描いた作品を観るのは初めてで、社会背景で驚いたことがいくつかあった。その一つは、イスラム寺院とキリスト教の教会が隣り合っていて、宗教の異なる者同士が一つ屋根の下で暮らしているケースだ。カメラが追うシャムシュディン家でもおばあちゃんはキリスト教徒、二人の息子たちはイスラム教徒である。バクティがイスラム教徒に改宗した理由は「都合がいいから」。実際、タリが奨学金の申請で面接を受けた時、イスラム教について何一つ知らないという理由で落とされたのだった。かといってキリスト教を信仰しているわけでもない。彼女の関心はもっぱら友達との交流にあるようだ。おばあちゃんは敬虔なキリスト教徒で、盗みを犯した孫を教会へ連れていく。しかし彼の父つまり息子から「勝手なことをするな」と怒られる。こうした家族間の宗教的なズレを、子どもはどのようにとらえるのだろう。

カメラがとらえるのは人だけではない。自然現象の映像は、まるで科学ドキュメンタリーのようだ。夜の星から、草の葉をぬらす朝露への移り変わりには、気持ちが高ぶるのを感じた。また、伝染病駆除のため街中で薬剤を散布する場面では、昆虫目線でとらえた路地裏の光景が興味深い。生き残ったゴキブリが体をよじらせて再び動き始めるが、食材の入った器にドブン。男の子が器の中の食物にがっついている。人も虫も生きることに必死である点で変わりはない?!

家族それぞれの視点が描かれているが、最後までくると主人公はやはりルミジャおばあちゃんかな、と思った。村を出るときの彼女は、線路際で「手を挙げても列車が止まってくれない」と不平を言っていた。その時の彼女は時代から完全に取り残されていた。しかし帰郷した彼女は、ガスボンベの使い方を親友(?)にしつこく教えるのだ。でも親友は頑として受け入れない。都会的価値観を友に押し付けているミルジャと、論理的な説明(村ではガスが高くつく。薪を拾いに行くのも運動になる。)で拒否する友のやりとりが、一番の見どころのような気がした。

価値観はその土地、その人間それぞれで異なる。そんな当たり前のことを教えてくれる作品でもあった。

星の瞬く夜空を見上げる二人。彼女たちの輝いた顔が今も脳裏に焼き付いて離れない。

ウルヴァリン:SAMURAI

20130916

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2013年/アメリカ/2時間5分(劇場で鑑賞)
監 督  ジェームズ・マンゴールド
原 題  THE WOLVERINE
出 演  
ヒュー・ジャックマン  真田広之  TAO
福島リラ  ハル・ヤマノウチ  ウィル・ユン・リー
ファムケ・ヤンセン  スヴェトラーナ・コドチェンコワ
山村憲之介 

<あらすじ>
カナダで隠遁生活を送っていたローガン(ヒュー・ジャックマン)のもとに、ユキオ(福島リラ)と名乗る日本人女性が現れる。死の淵にいる大物実業家、矢志田(ハル・ヤマノウチ)に会ってほしいと言うのだ。矢志田はかつてローガンが命を救った男。ユキオはその雇い主の命を受けてやってきたのだった。

日本の矢志田邸で、ローガンは矢志田の息子シンゲン(真田広之)とその娘マリコ(TAO)に会う。矢志田がマリコを後継者に指名してから、邸内には不穏な空気が流れていた。

<感想など>
X-MENシリーズに魅せられて一気見したのは昨年春。だから今回はシリーズ初の劇場鑑賞となったわけだが、ずっと前から見続けてきたような感覚がある。役者自身は年齢を重ねているのに、前作と変わらないローガンがそこにいた。「おかえりなさい」と言いたくなる。

さて、今回目の前に広がるのは、異国情緒たっぷりの「ニッポン」だった。
その風景に違和感はぬぐえないが、同時に他国の人から見た日本の姿として興味深い。
看板の中には「カラオケ」が目立ち、ウルヴァリンが立ち寄る場所には、パチンコ店やラブホテルが登場する。自分なら通り過ぎるだけの場所を、カメラは丁寧に追っていく。
まるでウルヴァリンと一緒に日本を旅している気分である。終盤には、彼の目で風景を見ていた。

日本女性の姿は異国調、というよりも、地球人には見えない。マリコはウルヴァリンに守られる立場、ユキオはウルヴァリンを守る立場と、両者の役割は対照的だが、どちらも強靭な意志を持っている。切れ長の目と変化の少ない表情は、他国の人から見た日本人女性像かもしれないが、自分の目から見ると冷徹な印象が強い。

こんなふうに、カルチャーショックを感じながら(笑)日本や日本人を眺めるのも楽しい。

今回はローガンが一時的に治癒能力を失う。それは本作の見どころの一つだろうが、そんなヒーローの姿には違和感があった。元々彼はミュータント能力に苦しんでいたが、能力を失ったとたん、守るべきものを守りきれなくなる。そのとき彼はかつての力を渇望したはずだ。能力があるときには呪い、なくなると欲しくなる。そんなところに矛盾を感じて、少し引きずってしまった。

おそらく、自分の中にウルヴァリンへの強い要求があるのだろう。
私は苦境に陥って苦しむ彼の姿を見たくない。不死身の体を張って、敵をバリバリ倒す、強すぎる姿だけを見ていたい。(笑)だからジーンの夢を見て苦しむ姿もイヤ!!悩み苦しみなど、その鋭い鉤ツメで、かき切ってしまえ~(笑)とはいえメタリックなウルヴァリンも味気ない。情緒もあってほしい…。(なんという我儘…)

エンディングではおなじみの二人に遭遇。前作『X-MEN:ファイナル ディシジョン』の過去ログを見て、この話はまだまだ続くのだと、ワクワクした。今回は新たなミュータントも登場したが、彼女(スヴェトラーナ・コドチェンコワ)の姿はいつしか消えていた。次の活躍(?)に期待しよう。(笑)

恋するショコラ

20130609

Lessons in Chocolate

2007年/イタリア/1時間38分(TV視聴)
監 督  クラウディオ・カペリーニ
原 題  Lessons in Chocolate/aka Lezioni di Ciccolato
出 演  ルカ・アルジェンテロ  ハッサニ・シャビ
     ヴィオランテ・プランド  ネリ・マルコーレ

<あらすじ>
建設業を営むマティア(ルカ・アルジェンテロ)は経費節減のため足場さえ組まず工事を進めていた。そんなとき非正規労働者のカマル(ハッサニ・シャビ)が屋根から落ちてしまう。彼は故郷エジプトでの菓子店経営を目指し、パティシエの学校でショコラを習う予定だった。ところが怪我で両手が使えない。彼は「雇用側の落ち度を警察に訴える」とマティアを脅す。困り果てたマティアはカマルの身代わりとして通学し、授業内容を彼に伝えるという日々を送る。仕事と学校で疲れ果てるマティア。そんな中クラスメートのセシリア(ヴィオランテ・プランド)から好意を持たれ、彼の心も彼女に傾いていくのだが…

<感想など>
タイトルから想像できるのは、あま~いあま~いラブストーリー。確かにショコラをつくるシーンからは甘さがにじみ出ているが、恋愛の方は決して甘いとは言えない。大いなる誤解を招くタイトルである。

主人公はお菓子については門外漢だし興味も全くない。ところが悪徳経営が露呈するのを恐れるあまり、元雇用者の言いなりになってその世界に入っていく。コンテストで優勝して開店資金をひねり出すこともまた目的の一つだ。エジプト人に似せようと日焼けサロンに通い、クラスメートからエジプト文化を尋ねられるとすぐカマルに電話で訊くほどの「真面目さ」である。

やがて深く学んでいくうちに、彼は本気で素晴らしいショコラを目指すようになる。些細なミスも許されないお菓子作りと、自分の方業である建築とを重ねて考えるマティア。大好きなセシリアに素性を明かせない中、二人の恋の行方はどうなるのだろう…。けれどもこの恋愛、ストーリーの中では二の次、な感じだ。

マティアがお菓子作りに対し本気モードになる経緯の中には、恋愛も多少からんでいるが、それよりも、カマルとのつながりの方が、比重が大きいと思う。息の合った漫才コンビのように、二人の台詞は宙を舞い、互いに補完しあうデコボココンビとなっていく。

いい意味で予想が裏切られた。その一つは、お菓子作りが出てくる作品としては、珍しくそのお菓子、ショコラがおいしそうに見えなかったこと。もう一つは、恋愛の方がハッピーエンドではなかったことだ。だからこそ、男二人の存在感が大きく残る結果となったのだと思う。

軽くてご都合主義的な面はあるが、社会文化の諸問題や「創る」意義を考えさせられる物語だった。アジア作品とはまた別種のテンションに魅せられ、ついつい最後まで走ってしまった。

ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日

20130131

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2012年/アメリカ/2時間7分(劇場で鑑賞)
監 督  李 安(アン・リー)
英 題  Life of Pi
原 作  ヤン・マーテル『パイの物語』
出 演  スラージ・シャルマ  イルファン・カーン
     アディル・フセイン  タッブー
     レイフ・スポール  ジェラール・ドパルデュー

<あらすじ>
パイ・パテル(スラージ・シャルマ)は動物園経営の父(アディル・フセイン)、母(タッブー)、兄(ヴィビシュ・シヴァクマール)との4人家族。パイが16歳の時、父は動物たち共々カナダのモントリオールに移住することを決意する。ところが乗船した日本の貨物船が途中で大嵐に遭い沈没。助かったのは、自分以外に、シマウマ、ハイエナ、オランウータン、さらにベンガルトラだった。やがて救命ボート上にはパイとトラ(リチャード・パーカー)だけが残り、壮絶なサバイバルの日々が始まった。

<感想など>(ラストに関するネタばれを含みます)
物語は、カナダ人の作家(レイフ・スポール)の、パイ・パテル(スラージ・シャルマ)への取材から始まるが、そのときは最後の衝撃など想像もしなかった。次にパイの幼年、少年期の回想へと移るが、前宣伝でさんざん観たあのトラと、何の関係があるのか?と、長すぎる前置きにちょっぴりいらついた。でもその生い立ち編こそ肝心!と気づいた時にはすでにラスト。

見どころはもちろん、洋上をトラと共に過ごした日々である。彼は一瞬たりとも生をあきらめず、困難の克服に全力を傾ける。そんな彼を作り上げたのが、両親の薫陶や、自身の持つ好奇心だと思う。特に、からかわれたり、いじめられたりした時の対処には、生き抜く上での知恵を強く感じた。はやしたてる子供たちを荒波に例えれば、これを見事に鎮め、さらに自分を波頭に昇らせたとも言える。こうした情景を描く長い序盤こそ、丁寧に観るべきだったのだ。

興味深かったのは、さまざまな宗教にふれるパイの姿だった。これを非難する人がいる一方で、母は彼の自由を尊重する。漂流する中で危機に陥った時、孤独になった時に、彼は複数の絶対的な存在に守られていたように映った。

そして何より、洋上の彼にとっては、生きることが、義務、責務といった、「課せられたもの」に見えた。実はトラとの漂流場面では、あきらめない強靭な心が、超人的に思えてならなかった。しかしもう一つの話を聞かされると、そうならざるを得なかった背景がわかるような気がしてきた。

猛獣の恐ろしさを植え付けた父。彼に慈愛を注ぎ続けた母。そんな両親の影響は計り知れない。生かしてくれた人々が心の奥底にあるからこそ、彼は生き延びることができたのだと思う。

ところで今朝、TVをつけていたら、いきなりアン・リー監督の対談が映し出されてびっくり!めざましテレビだった。その中では、巨大な人工プールでの撮影風景や、CGトラの制作秘話なども語られ、極寒の我が家が熱気でムンムンしてきた!!実は、劇場と眼の調子の関係で、私が観たのは3Dではない方だった。前段階の展開と3Dを目的に、また観ようか…と心が動いた朝だった。

レ・ミゼラブル 再鑑賞

20121227

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間を置かずに再鑑賞するのは、たぶんこれが初めてだ。
前回は日曜の第一回目で、広々としたスクリーンはガラガラ状態。今回はそこよりも大きめのシネコンで、レディースディ午後2時からの回。上映の40分も前に、すでに残る空席は3席という状態だったが、辛うじて前から5番目の壁際が確保できた。端からでも自然な映像が楽しめてよかった。

元々ヒュー・ジャックマン目当てで、かなり前からチェックしていた作品。タイトルは聞き覚えがあっても、ミュージカルの金字塔であることや、物語の詳細は知らないままだった。その昔図書室にあった『ああ、無情』と気づいたのもごく最近である。こんなふうにほとんど真っ白な状態で入った『レ・ミゼラブル』に、今私の心はかき乱されている。(笑)

鑑賞後の心洗われる思いをもう一度!と、前回に再鑑賞を即決。登場人物を知りたい気持ちも強かった。主役級以外にも、真っ赤なジャケットを着て革命の先頭に立っていた青年や、子役にも興味がわき、久々にパンフ、さらにサントラまで買ってしまった。

2回目だから物語はわかっている。だからか、人々の運命を思うとウルウルきてしまうのだ。特にエポニーヌ!!愛するマリウスのため、彼にコゼットの居場所を教えてあげるという、辛い役どころだ。コゼットとマリウスが愛をささやくその陰で、彼女は立っているのもやっとの状態。喜びにあふれる二人と、辛い胸の内を語る彼女の声が重なると、切なくて切なくて…。鈍感マリウスに腹が立つ!(笑)その後、彼女の独唱『オン・マイ・オウン』ではハンカチが離せなくなった。演じているサマンサ・バークスの細すぎるウエストが、悲壮感をさらにかきたてる。こんなに健気でいい子がテナルディエ夫妻の娘だなんて、信じられん!

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真っ赤なジャケットの青年はアンジョルラス(アーロン・トヴェイト)。顔の彫りが深く、リーダー的存在であることから、最初はマリウスよりも印象が強かった。彼の死をも恐れない覚悟が周りに波及していくところに、カリスマ性がうかがえる。原作や元となるミュージカルでの描かれ方に興味がわいた。

少年ガヴローシュ(ダニエル・ハトルストーン)もまた記憶に残る存在だ。蜂起前夜、彼のソロに続き学生たちが歌い出すシーンが忘れられない。勇気を見せつける行動が涙を誘う。

己の職務を忠実に務め、自分が絶対に正しいと信じていたジャベール警部(ラッセル・クロウ)。その信念が崩れたとき、残された道は自死しかなかったのだろうか。一方のジャン・バルジャンは、娘の幸せのため姿を隠す決心をする。一人は墜ち、一人は昇る。この最期の差を思わずにはいられない。

同時にジャン・バルジャンが「Who am I」と自問する場面がフラッシュ・バックする。自分がマドレーヌ市長ではなく、罪人ジャン・バルジャンにほかならないと自覚したその日から、最期を覚悟していたのだろうか。人生が180度変わるほどの出会いの有無が、二人の最期を分けたのかも。いや、ジャベールは最後に出会ったと言えるかもしれない。

ラスト、『民衆の歌-リプライズ』の大合唱が劇場内に響き渡る。苦しみ、悲しみの極みだったファンテーヌ(アン・ハサウェイ)が、ここでは力強い歌声を披露している。初めて見せるような晴れ晴れとした表情に、こちらも勇気が湧いてくる。命を落とした人々の顔が順に映し出されると、前回同様画面がぼやけてしまった。

レ・ミゼラブル

20121224

Les Miserables

2012年/イギリス/2時間38分(劇場で鑑賞)
監 督  トム・フーパー
原 題  Les Miserables
原 作  ユゴー『レ・ミゼラブル』
出 演  ヒュー・ジャックマン  ラッセル・クロウ
     アン・ハサウェイ  アマンダ・セイフライド
     エディ・レッドメイン  サマンサ・バークス

<あらすじ>
ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)は19年の服役後仮釈放されたが、司祭宅で盗みをはたらき、ジャベール警部(ラッセル・クロウ)に捕えられる。しかし司祭は警部を前に彼を庇う。そんな慈愛に打たれたジャン・バルジャンは己を変える決心をし、やがて〈マドレーヌ市長〉として大活躍。ところが赴任してきたジャベール警部に気づかれ、再び追われる身に。

〈マドレーヌ市長〉は、娘コゼットのため身を売ったファンティーヌ(アン・ハサウェイ)を看取り、約束通りコゼットをテナルディエ夫妻(サシャ・バロン・コーエン、ヘレナ・ボナム・カーター)から引き取ると、追手をかわして修道院内に逃げ込む。

時がたち、コゼット(アマンダ・セイフライド)は美しい娘に成長、街で見かけた青年マリウス(エディ・レッドメイン)に恋をする。それを知ったジャン・バルジャンは、活動家であるマリウスを命がけで守る。

<感想など>
毎日のように流れる宣伝で、メロディはすっかりおなじみになった。でもやはり劇場で聴く歌声は違う。天から降り、地から湧いてくるような音は迫力満点。最初の、徒刑囚たちがずぶ濡れで綱を引く場面から圧倒されっぱなしだ。

ヒュー・ジャックマンの伸びのある高音と、ラッセル・クロウの渋みのある低音の重なりあいは、二人の人間関係を物語っているかのようだ。また、アン・ハサウェイの張り裂けそうな高音と、アマンダ・セイフライドの透明感のある高音は、まさに母と娘の声。台詞とは違った感情表現が、胸の奥に響いてくる。

原作は今半分まで読んだところ。当時大規模工事で労力が必要なために不当逮捕で徒刑囚を増やしていたこと、子どもが虐げられていたことなど、悲惨な状況が画面の陰鬱さと重なった。

そんな中、宿屋経営のテナルディエ夫妻の描き方が喜劇風で、とんでもない人たちでありながら楽しめた。後半、おかみさんのサングラスには笑ってしまう。でも娘のエポニーヌ(サマンサ・バークス)は可哀そうで、その歌声には泣かされた。多種多様の人物像が刺激的に映る。

罪とは?赦すとは?ジャン・バルジャンとジャベールの姿を通じて、人の道を考えさせられる。それぞれの選んだ道が正しいかどうかはわからないが、二人にとってはそうするしかなかったのだろうと思うと心が痛む。

歌のほとんどは悲しみ、怒りの発露であり、人々の表情は暗い。風景も陰鬱で重々しい。光がさすのは、後半、騎兵隊が現れたときと、ラストぐらいではないだろうか。だから、ほんの一瞬の明るさに目を奪われたのだと思う。未来の希望を叫ぶ大合唱に、画面がぼやけた。

インドシナ

20120808

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1992年/フランス/2時間39分(レンタルDVD)
監 督  レジス・ヴァルニエ
原 題  Indochine
出 演  カトリーヌ・ドヌーヴ  リン・ダン・ファン
     ヴァンサン・ペレーズ  アンリ・マルトー
     ジャン・イアンヌ  エリック・グエン
     ジャン=バプティスト・フィン

<あらすじ>
1930年代のフランス領インドシナ。ゴム園を経営するエティエンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、父(アンリ・マルトー)、養女のカミーユ(リン・ダン・ファン)と暮らしていた。アンナン皇女のカミーユは5歳の時、両親が事故死してエティエンヌに引き取られたのだった。エティエンヌはフランス人将校、ジャン=バチスト(ヴァンサン・ペレーズ)と恋人関係にあるが、カミーユも彼に熱烈に恋をしていた。やがてジャン=バチストは離島に左遷され、カミーユはフランス留学から帰ってきた富裕層の息子タン(エリック・グエン)と結婚させられる。しかし自由を提唱するタンの手助けで、カミーユはジャン=バチストを追う旅に出る。途中、奴隷労働から逃げ出した家族と共に、ようやく離島に到着するが、親しくなった母子が不当に殺害されたのを知り怒りが爆発、フランス軍人を銃殺してしまう。

<感想など>
60歳を超えた主人公エティエンヌが、義理の孫を相手に自身の半生を語る形で進行する。だが途中、カミーユが故郷を離れ発砲事件を起こし、ジャン=バチストと共に追われる身になると、主役が一時カミーユに移ったような展開となる。淡々とした主人公のナレーション部分と、その間に挿入された逃走劇は、物語全体に緩急をつけているようにも感じられた。

壮大な歴史ドラマであると同時に、フランス人エティエンヌの人間性を様々な角度から映し出していて興味深い。彼女は、経営者、娘、母、恋人と、色々な顔を持つ女性だが、時に娘の前では父の立場にもなる。二人で踊る場面などそのいい例だ。彼女を立派なレディにするためには、父の役割が重要だと考えているのだろうか。カミーユをリードするときのエティエンヌは、威風堂々とした父親に見える。

経営者としてのエティエンヌにも男性の風格が漂う。労働者を統率し、時には制裁を加え、一緒に汗も流す。元々カミーユの親の領地だったということで、後継者へのバトンタッチが念頭にあるのだろうか。彼女は支配側の人間であるが、父同様その土地に暮らす人々と折り合って生きようとしている。人々に隷属を命じる軍人とは性質が異なると思う。

立場と情のはざまに揺れ、最終的にカミーユと決別せざるを得なかったエティエンヌ。恋人との関係よりも、父親、カミーユ、男友達の軍人ギイ(ジャン・イアンヌ)、カミーユの息子(ジャン=バプティスト・フィン)との関係の方が印象深いのは、彼らの方が、彼女の人生の選択に色濃い影響を与えているように見えるからだろうか。

支配する側のエティエンヌが、実は見えない鎖に縛られて自由のない人生を送ってきたのに対し、カミーユは自由を求めて羽ばたいていく。演じるリン・ダン・ファンは、あどけない顔からは想像もつかない大胆さで、カトリーヌ・ドヌーヴ相手に勝負を挑んでいる。こうして考えていくと、ジャン=バチストは三角関係の要なのに、何故か印象が薄い。非人道的な行いに怒りをあらわにし、時に激しい気性をのぞかせながらも、彼の本心が伝わってこないからかもしれない。一体彼はどちらを本気で愛していたのだろう。

風光明媚な海、山、川。海に漂うサンパンや、樹木の生い茂るプランテーション。豊かな自然の中で繰り広げられる人間ドラマに、いつしか時間も忘れてしまった。

やはりカトリーヌ・ドヌーヴはどの立ち位置でも絵になる人だ。


The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛

20120724



2011年/フランス・イギリス/2時間13分(劇場で鑑賞)
監 督  リュック・ベッソン
原 題  The Lady
出 演  ミシェル・ヨー  デビッド・シューリス
     ジョナサン・ラゲット  ジョナサン・ウッドハウス
     スーザン・ウールドリッジ ベネディクト・ウォン

<あらすじ>
1988年、アウンサンスーチー(ミシェル・ヨー)は母を見舞うため、夫(デビッド・シューリス)と二人の息子をイギリスに残し、故国ビルマ(現ミャンマー)に戻る。当時ビルマではネ・ウィン率いる軍事政権が、学生や市民による民主化運動を弾圧していた。ある日彼女は大学教授らの訪問を受ける。故人となった今も敬愛されるアウンサン将軍の娘、アウンサンスーチーに、国民民主連盟の結成とその代表になることを要請しに来たのだった。彼女はこれを承諾、民衆の圧倒的な支持を得て、家族も応援する。ところが軍事政権は家族を国外追放とし、彼女を自宅に軟禁する。

<感想など>
アジア女性初のノーベル平和賞受賞者、アウンサンスーチー氏。くっきりした顔立ちと細身の身体が強い印象をなげかけ、誰もが知る政治家の一人と言えよう。最近ようやく自宅軟禁がとかれ、政権との協調が報道されてはいるものの、知名度の割にはベールに包まれた部分が多い。制作側のコメントで「パズルピースを合わせていくような作業」という表現があったが、実在の著名人について想像力を駆使することはさぞ大変だろうな、と、制作秘話への好奇心も高まった。

現役政治家の半生であることから、ドキュメントとしての評を多く目にする。しかし本作はあくまで作られた物語だと思う。彼女の政治的立場は複雑である。そうした立場を慮り、弾圧に対し勇気をもって立ち向かう姿と、家族を想う姿の二面に絞ることで、氏の人間性を鮮明にしているように感じた。

主演ミシェル・ヨーの役作りにかける熱意が表れた、凛としたアウンサンスーチー像だった。顔立ちは全く違うのに、タイム誌を飾る氏の写真や、若いころの写真など、本人の顔が度々出てきても違和感がない。これまで観たことのあるミシェル・ヨーとは全くの別人、アウンサンスーチーその人に見えてくる。

彼女を中心とした国民民主同盟の面々とネ・ウィンをはじめとする軍事政権のメンバーたちは両極にあり、双方が対峙する場面ではいつも緊張を強いられた。特に銃を突き付けられたアウンサンスーチー氏がたくさんの銃の横をすり抜けていくシーンは、その姿が相手に打ち込んだ弾丸そのものに見え、崇高な精神に触れた思いだった。逆にネ・ウィンは突然部下を射殺するような、とことん邪悪な存在として描き込まれている。演じる役者は相当嫌われるのでは?と思えるほどの好演ぶりだ。

最後まで観てふとタイトルに違和感を持った。「ひき裂かれた」のは「愛」ではない、と。
癌を発症したマイケル・アリス氏は、幾度もビルマ(ミャンマー)入りを求めながら、ついにはその願いは叶えられなかった。アウンサンスーチー氏は、祖国を離れたら二度と入国できない恐れがあって、夫の元へ行くこともできない。離れていても愛はずっと続いている。でも結局彼女は夫の最期を看取ることはできなかった。家族の往来の手段を断つとは、なんと残酷な策だろう。

彼女を大拍手で迎える大観衆の姿には、未来を彼女に託した誇りさえ感じられた。金色に輝く丸屋根、真っ青な空、そして氏の髪を飾る大きな花。自由を髣髴とさせる鮮やかな色彩が、国民の実生活も照らし出してほしいと願わずにはいられない。

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